数日前、あの悪夢を初めて見た日…、302号室に閉じ込められたあの日から、こうなる

      私の運命は決定付けられていたのだろうか。

      恐怖に耐え、この悪夢から解放されるべく私に出来る限りのことをしてきたつもりだったが

      それすらも彼の儀式の一環に過ぎなかったというのか。

      寧ろ、そうしたことで21の秘跡を完成させてしまったというのだろうか。






      シャツをボタンごと無造作に引き千切ぎられる。

      淀んだ空気に触れた肌をウォルターの指がそっと這った。


      「…いよいよだ、21の秘跡はおまえの死をもって成就する」


      ウォルターは恍惚とした表情で私を見下ろしながら、返り血に染まった顔をゆっくり近づけてきた。

      頭痛が酷くなる。

      吐き気が止まらない。

      まるで体の内側から食い破られるような感覚だ…。

      もう彼を振り払う力も彼の視線から目を背ける力も、ない。

      大手を広げて私を待ち構える死神を、交わす術などもう何もないのだ。




      「どうして、私が、こんな…」




      愚問だとはわかっているが、この数日間常に感じていた理不尽さを少しは誰かに…、

      むしろその張本人に訴えずにはいられない。

      ウォルターは口の端だけをクイとあげ、目を見開いたまま表情を変えずに言った。




      「勘違いするな、ヘンリー」




      撫でるように這っていた指が急に角度を変え、爪を立てて皮膚を切り裂き、肉を抉る。


      「ぐ…ああ、ぁっ」


      撃たれた傷さえ忘れてしまうほどの悪寒と苦痛、そして恐怖が体中を駆け巡る。

      体は動かない。




      「私にとって21番目の贄は誰でもよかった。『知恵ある者』ならばな」




      激痛の軌跡で数字を刻まれているのがわかる。




      「おまえでなくても、おまえと同じことをしてくれる者ならば私は誰でもよかったのだよ、ヘンリー」




      目を細めて笑いながら、愉快そうに私の瞳を覗き込む。




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      ウォルターはこの瞬間の為に10年前から人を殺め続けてきた。

      ………彼にとっての母親である302号室を、我が物とするために。




      「偶然おまえが来た。私にとってはただ、それだけだ」




      「……そう、か…」




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      刻まれた傷は見えなかったが、ウォルターの指先が鮮やかな赤に染まっているのは見える。

      私はたまたまこのサウスアッシュフィールドハイツの302号室に越してきたばっかりにこんな

      悪夢に巻き込まれ、そして体を切り刻まれながら殺されてしまうというのか。

      もしそれが運命だったとしたならば、尚更理不尽極まりない。

      管理人のサンダーランド氏もこんな曰く付きの部屋など貸しに出さなければよかったものを…。

      やはり安価なものにはそれ以上の代償があるのか…。

      …………いや、その代償にしては高すぎるような。

      諦めのせいか、既に苦痛も恐怖も麻痺し始めてきた私は、呼吸を整えながらそんな悠長なことを

      冷静に考えていた。




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      「だが………」


      ウォルターの指が止まった。










      「今となっては、おまえでなくてはいけない。ヘンリー…」










      そう言ったウォルターは…、ほんの一瞬……本当に一瞬だったが…



      ひどく優しいというのか…切ないというのか…苦しそうというのか……



      今まで見たこともない、形容しがたい表情をした。







      彼が何を想ったかなど微塵も理解らなかったが













      ………それは人間らしい表情だ、と思った。













      「ハハハハハハハハ!」




      「っ……!」


      その表情に困惑しているのも束の間、再び数を刻みだした痛みで我に返る。

      天井を仰ぎ、背を反らせて嗤う姿には、もう、その面影はない。

      彼は一体何を想っていたのだろうか。




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      それとも私の中の僅かな希望が見せた、ただの幻覚だったのだろうか。

      意識が朦朧とし、深く暗いまどろみへと堕ちていく。

      ただ、先ほど垣間見たウォルターの真意だけを模索しながら。






      「……ウォ、ル…、…タ…」






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      「案ずるな、ヘンリー。死は解放なのだ、肉体という枷からの」


      額に冷たさを感じる。

      おそらく銃口でもあてがわれているのだろう。

      心臓あたりに硬い感触もある。

      右手に持っていた杖でも突き付けているのだろう。

      目は開けているつもりだが、もう何も見えない。









      ああ、この間買った白ワイン、飲んでおくべきだったかな。





      勿体無いことをした。





      ウォルター、君の儀式の成就祝いに私からプレゼントだ。





      冷蔵庫にまだ入っているから、後で……君のお母さんと一緒に…飲むと、いい…。



















      それから後の記憶はない。

      何処だかわからない闇の中で身体が熱を失っていくのを感じながら、

      私は最後にウォルターの声を聞いた。








      「まだだ、まだ終わらせない。





       もっと私を楽しませてくれ……。





       おまえは、ママがくれた、最後のおもちゃなのだからな」