「なんだ、私と遊びにでも来たのか?」
部屋の壁にもたれ、俯いたまま話しかけて来たウォルターに少しずつ近づいていく。
表情は長い髪で隠れていて見えない。
手にした銃の引き金に指をかける。
「それとも、死してなお私を止めようというのか?」
現実世界から隔離された302号室。
そこは他の異世界同様、血と錆と膿で壁中が赤黒く覆われていた。
この世界の最深部で彼に『殺さ』れ魂を悪夢に取り込まれたあの刻以来、私は再びウォルターに対峙するべく
ここに来た。
全てが始まった、この、302号室に。
「……ヘンリー・タウンゼント」
壁からゆっくり身を起こし、血に染まった長髪の隙間から狂気を帯びた瞳で私を見る。
私を『殺し』た、あの時と同じ瞳だ。
「我が21の秘跡は成就した。私は母なるこの世界の王…」
ウォルターは私に致命傷を与えたあの銃を、その手の中で転がしている。
「今更、何故足掻くのだ」
背と首を不気味な角度で曲げ、見下しながらにじり寄ってくる。
「正義か?」
両腕を大きく拡げ、淀んだ空気を指に絡ませながら。
「復讐か?」
1歩足を進めるごとに全身を大きく傾け、その髪を揺らしながら。
「それとも、我が世界からの脱却かな?」
目の前に立っていた筈のウォルターの声が、頭のすぐ後ろから聞こえてくる。
言葉と共に、温度を持たない只の空気の流れが耳に触れた。
以前の私なら腰を抜かしそうになっていただろうが、今は自分がいやに冷静なのがわかる。
私は既に死んでいるのだから。
どれだけの苦痛を伴おうとも、永久に続くこの世界から逃げ出すことなどできないのだから。
諦めと目の前にある実情が私の感覚を鈍くしているのだろうか。
私はゆっくりと振り返りながら、ウォルターの瞳を見据えてその問いに答えた。
「君を………救う為だ、ウォルター」
ウォルターは、表情を変えずに口の端だけをクイと上げた。
「私は、母とひとつになったのだ。望むものなど他にない」
21の秘跡は、『母に逢う』という彼の願いを成就させた。
そんなささやかな望みの為に自らを犠牲にしてまでも凶行を重ねてきたウォルターにとって
その瞬間は私などには想像すらつかないほどの充実感に満たされていたのだろう。
しかし、その先には
何も、ない。
彼しかいないこの限られた世界の中で、返事のない母を唯想い、その名を叫ぶ。
あるのは我々が『孤独』と呼ぶ永遠ともしれない時間だけだ。
それは、あのウォルターが最も恐れたものではなかったのか。
孤独を癒すべく『母』に逢うことを望んだ彼の、辿り着いたこの場所が、更なる孤独なのだとしたら。
この世界に永遠に君臨し続ける彼に救いはあるのだろうか?
そんな彼を、どうすれば救えるのだろうか?
「それにだ………」
ウォルターは小さく喉を鳴らして嗤った後、ずいと身を乗り出して私の瞳を覗き込んだ。
互いの前髪が触れ合う程の至近距離。
大きく見開かれた目はひどく澱んでいてまるで光を捉えていないようだ。
「おまえに私を救うことなどできはしない」
瞳の奥に広がる彼の闇が私の瞳へと流れ込み、浸食されそうな感覚に襲われる。
絶対的な狂気に、気圧されそうになる。
しかし
今の彼の言葉で確信した。
彼はやはり、心の何処かで救われたいと思っているのだ。
私の中で、ウォルターと幼い頃の彼の影が重なる。
私は1歩下がって彼との距離を取り、声の調子を少し上げて軽く笑いながら言った。
「それなら、私はもう『眠』る……」
ウォルターがどう出るか試してみることにした。
生への執着がなくなるとこんなにも度胸がつくとは。
「魂がここから出られないのは構わない、だが私の意識はもう必要ないだろう?」
ウォルターはそのままの姿勢で動かない。
ただ、少し…寂しそうな顔をした。
………………いや、私の気のせいかもしれない。
「何もできないのなら…私がここに留まる意味はない。………そうさせてもらう」
背を向けて一歩踏みだそうとした次の瞬間、私は身の毛が弥立つ異様な殺気と自身を覆う影に
危機感を覚えて向き直った。
そして目前に広がるその光景を見た瞬間、死してもやはり恐怖という感情には抗えないことと、
……改めて彼の凶暴性を思い知ることになる。
大きく右腕を掲げ、今にも私に振り下ろそうとする彼がその手に握っていた物は…
帰服の、剣……。
ウォルター、何故それを……君が…
そう言おうとした瞬間、彼はそれを勢いよく私の左胸に突き刺した。
「ぐぅ……、かはっ…!!」
帰服の剣は身体を貫通し、私はその勢いで床へと磔にされる。
生前私の強い味方であった帰服の剣も、今の私にとっては激痛を伴う拘束具以外に他ならない。
全身に電流の様なものが流れ、身体を動かす度に激痛が走る。
四肢の痙攣がとまらない。
息苦しい。
自分は邪悪なものへと成り果ててしまったのだと痛感した。
心の底から絶望したが、涙が流れたかどうかはわからない。
指先を動かす度に流れる衝撃を息を整えながらやり過ごしつつ、揺れる視界でウォルターの動きを
なんとか追う。
「…ヘンリィぃ……」
私を貫く剣の柄に両手を添えながら、更に捻じ込んできた。
「うぐっ、あぁぁっ…」
…………折角整えた呼吸が台無しになった。
もう死んではいるが、死にそうだ。
あのウォルター相手に駆け引きを持ちかけようとした私が馬鹿だった。
「そんなこと、誰が勝手にしていいと言った?ん?」
正直見逃してくれるとは微塵も思ってはいなかったが、ここまでされるのは予想外だ。
…………勿論そんな負け惜しみを言える状況に私はない。
嗚呼、そういえば彼はこの世界の『王』なのだった。
これからは、勝算なしに逆らうような真似はしないほうが良さそうだ。
やはりさっきのは気のせいだったのだ。
「いいだろう………」
…………私は全然よくないのだが。
「聞くがいい」
ウォルターが不気味に微笑んだ。
ママ……
ママ……、おきて…………
にじゅういちのひせき、じょうずによめたら
おきてくれるの?
私は母に逢うため啓示に従い、贄を捧げてきた。
母に逢うため………、そう、母に逢うために、だ。
その為ならば、人間を殺すことなど造作もない。
私は、母に逢いたかった。
だが途中で気付いた。
恐怖にゆがみ狼狽して見開かれるあの表情、その瞳。
獣のような断末魔のあの余韻、その心地よさ。
飛散する赤い血液のあの感触、その生暖かさ。
切り裂いた体躯から覗く臓物のあの律動、その美しさ。
人間を唯の物質へと変える瞬間のあの喪失感、その爽快感。
…………………あぁ。思い返すだけで、クる。
奪う感覚の全てが快感となって私の身体を駆けめぐり、耐えきれずイきそうになる。
人を殺すことで興奮する。愉悦を得られる。
『 ニんげんヲ ころス こトハ、 とテも タノしイなァ 』
(ママ、起きて)
儀式の完成が近付くにつれて私は感じていた。
あと10人………9人……8人、それだけ捧げれば、母に逢える…、その悦びと。
あと7人………6人……5人、それだけしか、……………………………殺せ、ない…。
…もっと。
『ヘンリー、おまえで最後だ』
もっと、もっと、もっと、もっと、
『我が21の秘跡は成就する』
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、
『ママ…、やっと逢えた……』
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もッと、もっト、モっと、もット、モット、もット、
(このおにいちゃんまで いなくなっちゃうよ)
殺したい
(ほんとうにひとりぼっちに なっちゃうよ)
殺 シ 足 リ ナ イ 。
(それでも いいの?)
……これは……最悪の展開だ。
「私を救いたいと、確かそう言ったな。ヘンリー」
首を不気味に傾かせて、私を見下ろしながらウォルターが嗤う。
本来なら美しく輝く筈のくすんだ金髪が、やけに栄えて見えた。
「………ウォル、タ…、よせ…」
ウォルターは倒れて動けない私の体に跨りながら、左胸に刺さった帰服の剣を抜き取って
ソファに投げ棄てた。
あの恐怖が死してなお私を襲う。
「すまなかったな、……先の言葉は撤回しよう」
ウォルターの冷たい指が、私の首筋に絡みついてくる。
激痛の余韻に喘ぐ私には、その腕を交わすことなどできなかった。
「おまえが…この餓えを、満たしてくれるというのだな?」
(ねぇ やめようよ)
じわりじわりと力を込められる。
「ぐっ………」
呼吸ができない。
何故死んでいるのに呼吸なんて必要なんだ。納得いかない。
………苦しさを紛らわせようとそんなくだらないことを考えてみたが……無理だった。
「………っ、が……ふっ」
息が出来ないので何も喋れない。
呼吸をしようと足掻くが、唇の隙間から空気がヒュッと鳴るだけだ。
せめてもの抵抗にウォルターの腕に爪を立ててはみるが、力が入らない。
視界が霞んできた。
あの時と、同じだ。
底無しの闇が、私の四肢を掴み奈落へと引きずり込む。
ウォルターの顔が、遠ざかってゆく…。
気が付くと私は希望の家の階段に腰掛けていた。
どれほどの『時間』が過ぎたのだろう。
ウォルターは望み通り、あれから何度も何度も私を『殺し』ている。
1度目はゆっくり私の首を絞めながら、呼吸が出来なくなり苦しんで『死』んでいく私を
恍惚とした表情で鑑賞していた。
その次は隠し部屋に置いてあった鋸のような道具で私の四肢を指先から順に切断し、
その激痛に狂い叫ぶ私を息を乱しながら眺めていた。
あの犬のような化け物の群れに放り投げられ、喰い千切られる私を嗤いながら、ただただ
見ているだけの時もあった。
次が何度目なのか覚えていない。
今度はどんな趣向で私は『殺さ』れるのだろうか。
絶望としか言いようのない永遠に繰り返される地獄の中にいるというのに、妙に冷静な自分に
溜息をつく。
どうせ苦痛と恐怖に意識を手放した次の瞬間、気が付けば私はこの世界の何処かになおざりに
されているのだ。
時間だけが永遠にあるこの世界で、私がするべきことなど元より何もない。
……ならば、ウォルター。
君の狂言にとことん付き合ってあげようじゃないか。
君が私を『殺し』て………『殺し』て、『殺し』て、『殺し』て、『殺し』て、……そして『殺すこと』に飽きた時、
君は一体何を想うのか。
その時、君が『孤独』を感じたのならば………
君の 負けだ。
背後から扉の開く音がする。
私は階段に腰掛けたまま振り向く。
そこには、チェーンソーを片手に気味の悪い笑顔を向けているウォルターがいた。